はちみつ日記

お弁当日記に近くなりそうです。

2023 5/3 初の大型連休初日、『見直しの日』として過ごす。 

おはようございます。

 

今日から大型連休です。

 

一先ず、溜まっていた段ボールの処分を朝イチで済ませ、朝食を用意して、一人会議。

どうこの休みを過ごそうか…。

 

 

久しく写真を何もあげていなかったので、朝食の写真でもあげてみます…。

 

 

プロテインと、フルーツ、チーズ。

 

調子を崩し、転職・仕事に復帰したものの、万全と言えない状態だからなのか、要領が掴めていないのか、熟すための知識や技能がまだ十分ないのか…。

 

きっと理由は1つではなく、どれもが事実なんですが、休む時間の確保のためには調整しなければならない生活に必ずかかる時間が存在していて、その一つが食事の時間でした。

 

体調への不安であったり、生活をちゃんとしなければならないという教えによる固定観念?だったり、不規則で健康管理の難しい仕事をしていた経緯もあって、ちゃんとしたい願望(というか、本当はこうしたいんじゃないという感覚があったんでしょう)気持ちを押し殺しながら現実に適応しようとしたことが、やや脅迫的・執着みたいになって反動で出たのかも知れないなーと思ったりもします。

 

正直苦しかった。

 

 

そうこうしているタイミングで、『食』を生業とする方との関わりも多くなっていたこともあって、恐らく本来、そこまで自分自身にこだわりがないことであっても、こだわらないと『いけない』のマインドになってしまっていたような気がしました。(自分でも気が付かないくらいいつの間にか…という感じで。)

 

違和感はあったと思うんですが、我慢はしなければならないことなのだ、とそこもそう思っていたいたようで、半分無意識に近く我慢をしていたのではないか、と思います。

 

人との関わりに我慢が必要なものだという思い込み。

したくなければ関わらないことも選択としてできると思うんです。

 

今落ち着いてきた中で考えて、管理はしなければならないことはあったとしても、我慢は良いものを生まない、と経験的に思っているので、必要はない気がしてきました。

したい人の説教を聴くのって無駄な時間です。

我慢はしたいならその人がしたらいいことで、他人に強要させることではないはずです。

いつだってやめようと思えば、本当ならやめられることもたくさんあると思うんですが、心の状態でそう思えないことがあるだけだとも思います。

 

心の状態は環境に影響されることも多くて、周りのことってコントロールできないこともたくさんありますから、『自己責任』なんてことは運のなかった人に対して思ったりしませんが。

 

我慢がよいものを生まないとの同じくらい、『かわいそう』という気持ちが相手の幸せにもならない、とも思ってもいます。

 

昔、安達祐実さんが子役で有名になったドラマで、『同情するなら金をくれ』という言葉が有名になった時期があったと思うんですが、大人になった今、この言葉ってどういう意味だったのかを考えると、自分の意思決定ができる状態で人は幸せを感じるものだってことなんだろうな、と捉えるようになってきました。

 

人から思われることも人生にとっては幸せなことではあると思うんですが、主軸は自分での意思決定ができる状態があって初めて、周りの気遣いだったりを受け取る余裕みたいなものも持てるじゃないかな、と思う、という…そういう結論。

 

なんだか話がずれましたが、色々時間的な余裕を確保するために、手放せるなら手放せることも必要、ということを考えると、食事については栄養面や心の充足感は『ちゃんと』、時間的な面では追われない状態にしたい…

 

そういう自分の要求を叶えるためには手間はかけず、世に存在する便利なもの(この場合プロテイン)も取り入れて、食べてみる…。

 

けれども流行ってはいても、プロテインオートミールのような楽しむ食事ではなく、維持するための食事だけでは心の面で不足がでできてしまいますし、逆にモデルのような食事では維持に足りないものもでできてしまう気がします。

 

日本の古き良き台所で学べることって、自分のために手間暇をかけて作ってくれたことに感謝する、とか、生活を家族という集団で分担したりすることで、周囲とのコミュニケーション力を育む意味では大切なことだと思うんですが、感謝すれば人が与えてくれるものというのも厚かましいですし、『分担』と勝手に誰かに役割を押し付ける、というのも日本人の悪い癖だと感じます。

 

ベース、大人になったら自分のことは自分でやることが当たり前、と思って自立するのは必要なことでは?

 

ヨーロッパ的な生活では、自分で自分を満足させる自立心みたいなもの…感情のコントロール的な面ではとても勉強になるものがある気がします。

ホテルに勤めていた時のこと、インバウンドのお客さん(と言っても国で様々ですが)と日本人の大きな違いを感じたのは、幸せは与えられるものだと思っているか、感じるものだと思っているかの違いだったような気がします。

 

何かと日本人は注文はしないんですが、文句が多い。

海外の方は注文はしても文句は言わないんです。

 

ちなみに中国圏の方は、権利主張がはっきりしている。(笑)

(お仕事で中国圏の方と働いた経験を思い返して…。)

 

言語の発音的に言葉の音が強く感じるというのもあると思いますが、お国柄での違い、おもしろいな、と思います。

 

資本主義、合理主義の強いアメリカ文化だと、日本の田舎に育った私には合理的過ぎて不安になることがありますが、現代の生活、今の自分の生活には時間の確保のために必要であったり、競争という面があるんだ、というビジネス社会でやっていくための丈夫さを持つためには、こういう文化も多少は参考にした方がいいこともあるかもしれません。(NYで過ごした経験のある知人談参考。)

 

自由だからこそ、情報や選択肢が多いからこそ、決めるということが難しく感じることもある時代な気もしますが、バランスが大切で、情報から上手に役立てられることを取り入れて、価値観を見直して、自分のスタイルにしていくことが大切なんだろうなとつくづく思います。

 

 

それにしても、長年、大型連休と無縁な生活をしてきたので、いざ休みが来るとなってもどう過ごそう…何をしたらいいだろう、と何故か1カ月前くらいからちょっと前から不安だった、というカミングアウト。

 

折角の初大型連休ですが、少し前の体調不良もあって、計画的には迎えられない事情もあったりもします…。

 

『休みは楽しみなもの』というのが一般的なのかもしれない、と職場の右の席の先輩が『楽しみだよねー、最高じゃない?』とずっと隣で言うので、休みは楽しみだと感じなければならないもの、とうか、そう感じることが一般的なんだろうな、と自分がそう思えていない面があることも感じていたんですが、落ち着いて自分の感じ方を精査?すると、正直、私は仕事が嫌いではなかったりします。

 

仕事を『投げられる』、計画立てて進められない、という状況はストレスになりますが、タスクを考え、効率や手順を考え、進めていく、ということや、結果が見える、経過を通して自分の成長を感じることがある等々、『仕事の面白さ』だと思う面もあるからです。

 

マイペースで進められるなら、仕事のある日も嫌な日、ではないんですが、むしろ嫌なものだと思っている右の先輩と仕事をしなければならないことが疲れることな気がします。

 

仕事が嫌いなのは先輩の勝手ですし、したくないことは他人に押し付けても自分の評価は欲しいという感じを見て、どうでもいいなと思う反面、近くに居られていい気もしません。

 

責任と報酬は比例しているはずで、自分の立場を理解せず仕事をしている…何よりそこにそういう人を配置してる職場ですから、期待もしてはいませんが、害だけは加えられないように対策しておこう、という。(笑)

 

ずっと与えられる生活に慣れていると当たり前のラインがそうなってしまうんでしょうね。

 

こんなことを考えられるようになったのはある意味十分な人生経験を積んだということかも知れません…。(笑)

他人の嫌な面を見ることが嫌だな、と感じることも過去ありましたが、通り越して『人ってそんなもんだろう』と思えても来ていますから、不快だな、と感じたとしても、、想像の範囲内、と。

 

知ることはしんどい面もありますが、そこを通過して、他人との関わりを取捨選択できるようになっていけば、快適さは増すかも知れません。

 

さて、連休初日はこうしてブログを書いている間に洗濯物が仕上がったので、快晴ですし、タオルを干しておきます。

(連休後半は雨天の予報ですし)

面倒だ、とう人もいますが、私は天気のいい休みの日に、慌てることもなく洗濯を干せるというのは余裕があることを感じるので嫌いじゃありません。

(そもそも生活していれば当たり前に発生することをめんどくさがるというのはそもそもそれ自体がメンドクサイ…私はそんな価値観です。)

 

偶々ですが連休2日目がゴミの日でもあるので、初日はやりかけていた部屋の物の選別…いわゆる『断捨離』を進めていく日にしたいな、と思います。

 

社会人初のゴールデンウイーク。

有意義に過ごせたらいいな。